ことばを持つ苦しみ

ロビン・ダンバー 「ことばの起源 猿の毛づくろい、人のゴシップ」 

ことばの起源 -猿の毛づくろい、人のゴシップ-

 

という本を読みました。

私は実際のところ、かなり無口です。

大人になって義務感で話すようにはなりましたが、話すって結構疲れます。分かります?

ことばで思考することさえも疲れます。言葉を読むことも疲れます。

けれども、世の中には言葉があふれています。

どんだけ、あなたたちはしゃべるのが好きなのですか?と私は問いたいです。

その答えが、本書で、人のおしゃべりはサルの毛づくろいに相当するんじゃないのか?

ということらしいです。

 

毛づくろいから解放されることで、手が自由になり、その間、別のことができるようになりました。

また、毛づくろいだけでは、毛づくろいできる人数に制約があるけれども、それが言葉に置き換わることで、さらに仲間の集団規模を拡大できたらしいです。

ネアンデルタール人が滅びて、ヒトが生き残って現在のように増えたのも、集団の規模が大きかったかららしいです(これは、この前、NHKの人類誕生という番組でやっていたらしいですが)。

 

猿というのは、序列があって、序列の低い猿は毛づくろいの際に嫌がらせをされたり、毛づくろいそのものをして貰えないらしいです。

そのせいで、序列の低いメスザルはホルモンの関係から不妊になってしまうのだとか。

人にも同じような機構があって、多嚢胞性卵巣症候群に相当します。人の場合、原因はストレスとされています。そのストレスの原因は人によりけりです。

確かに、その毛づくろいが言葉に置き換わったとすれば、序列の低いヒトは、嫌みを言われたり、おしゃべりに入れて貰えず、無視されるということになりますね。

 

けれども、言葉というのは不思議なもので、自分に言葉をかけるということも可能で、自家発電的にことばを使用することもできるのですね。

その辺、便利と言えば便利なんですが、それすらも疲れる訳なのです。

 

それから、女性に求婚するために、言葉が使われるという話もありましたね。

ユーモアを使って女性を笑わせることに男性は熱心であるという話です。

笑うことでエンドルフィンが分泌されるから、ついでにユーモアのある男性のことも好きになるそうです。

ユーモアとかめんどくさいのでスピッツの歌にあるみたいに「くすぐりあって転げた日」みたいなので良くないですか?

それは草野マサムネが歌の上手いイケメンだから、くすぐるという身体接触に至れるのであって、そうじゃない男性はどうすればいいのか?

知らんがな、自分で考えろや。

 

また、現代都市生活者は、メロドラマにでてくるお仕着せの想像上の家族に、社会生活や共同体意識を求める人が多いらしいです。それは、血縁者から離れて暮らさざるを得ないことや友人仲間を作る機会が限られているためにそうなるのだとか。

日本でも都市部のアニメ視聴率層が比較的幅広いのはこのためでしょうね。

ちなみに、この本の原著は1996年出版です。

なので、田舎でオタクをやっている人間と都会でオタクをやっている人間は明らかに違う種類の人間なのです。

田舎を追い出され、都会にやってきてオタクをやっているとかじゃない限り。

 

他にもいろいろとトピックがあるんですが、脳みその機能と実際のヒトの行動がどう結びついているか?という話を進化の観点から考えている本で、結構面白かったです。

無題で無体

美味しいご飯をサイゼリヤで食べた後、楽しく帰ろうとしたら、宗教の人に絡まれました。

その人が、

「人生の目的は成仏する事なんです。」

というので、

「へえ、人生の目的は死ぬ事なんですねー?」

と聞くと、

「ええっ?!これから、人生楽しいことがあるのに!」

と返されました。

成仏って死ぬって意味だと思うんですけど?

死ぬために毎日、我武者羅に生きてる系の宗教の人じゃない事だけは確かなようでした。

そして、勧誘用の資料を私に示しながら、

北朝鮮がミサイル云々で、停電すると大変ですよね?」

というので、

「何が大変なんですか?そういう時は、運命だと思って諦めるしかないですよ。運命に抗うことは罪です」

と強い調子で言うと、確かに、などと納得されました。

一体何が罪なんでしょうか?自分でも意味が分かりません。

しかし、はっと我に返ったその人は、

「停電が起こって、高層マンションなんかにお友達が住んでたら大変ですよね?」

とか言うので、

「私、友達いないんですよ。だから、何が大変なのかわからないですね。じゃあ、もう行きます。」

というとあっさり解放してもらえました。

友達がいない事は確かです。自分でも意味が分かりません!

独り言、他者、死ニ場所を探して彷徨う

最近、性愛の本とか読んでいて、最近出版されたラノベとかも読んだりして、どうして人間が人間を好きになるのか?みたいなことを考えていたのですよ。

 

で、結論としては、相手の中に自分が投影できれば、相手を好きになり、投影できなくなれば、好きでなくなるということなのかなと思いました。

何か、普通の結論ですみませんね。

 

で、どうして純愛の「話」(小説とかアニメとかゲームとか何でも)が面白いのかというと、結局は、ヒロインが「他者」ではなく、「自分」の一部だからなのかな?

と思ったわけで、またまた、普通の結論ですみませんね。

 

けれども、「ぼくのかんがえたさいきょうのびしょうじょ」みたいなの、そのままを出すと、やはり、自分の延長であると気づかれてしまうのです。

しかし、全くの他者、本当に現実世界に存在する女性を描いても、読者からすると、その行動はちょっと。。。とかその言動はいかがなものか。。。と、現実世界のイライラを「話」の中でも、体験せずにはいられない訳で、それもそれで「話」が売れない訳です。

 

なので、読者に気づかれずに、「自分」の延長を出す必要がある訳で、それが自分の中の異性に目を向けることなのかな、と思った次第です。

 

自分の中の異性に目を向けて、詩を書いた人とか

萩原朔太郎 詩集〈月に吠える〉全篇 従兄 萩原栄次氏に捧ぐ

の「恋を恋する人」

 

女性になりきった妄想で自慰行為をした人とか

どうすれば愛しあえるの: 幸せな性愛のヒント

 

その辺を見ていると、「自分」というものを突破できるのかな?という気がしてきます。

 

で、このブログではよくあることなのですが、全然違う方向へ話の舵を切ります。

車谷長吉さんの

赤目四十八瀧心中未遂

は、私小説家の書いたフィクション小説という位置づけですが、アヤちゃんという女性が出てきて、これは完全なるフィクションの女性らしいのです。

しかし、よく読んでみると、このアヤちゃんというのは、実は人間ですらないのかな?という気がしてきました。

 

  • 猛禽類のような目
  • 迦陵頻伽という極楽浄土にいる鳥の刺青をされている
  • 「生島さんがさばいてた牛や豚の肉みたいに焼いて喰おうと、勝手や」

 

とあるように、アヤちゃんというのは鳥を思わせる女性です。

これですが、鳥を思わせるというより、鳥そのものではないのか?という気がしてきたんですよね。

要するに、車谷さんが厨房で毎日、捌いていた食用の鳥です。

安月給に耐えて、いつか自分を馬鹿にした人間どもを見返してやりたいと思いながら、絞め殺していた鳥です。

下っ端の自分が早朝に出勤して、無心に捌く鳥です。

人間が生きるために殺される鳥です。

可哀想な鳥ですが、時間までに殺して捌き終えなければ、自分が上の人間から暴行を加えられるので、黙って殺す鳥です。

このまま鶏肉を抱えて店から逃げ出し、鶏肉と一緒に心中したいと思ったこともあったのかもしれません。

人間生きていると、悪意ある、もしくは、酷くすると悪意のない他人から、人間以下の扱いを受けることもある訳で、そんな時は、しばらくは自分が人であることを忘れて、一塊の肉片の中に自分を見出し、肉片に恋をすることもあるのですよ。そうなると、肉片に対する恋愛感情が生まれてしまい、捌くのが苦痛になってしまうのです。

 

しかし、多くの人間にとってそんな現実の辛さなんてどうでも良いのです。

そんな「話」はたくさんその辺に転がっており、誰も見向きもしない「話」です。

某匿名掲示板に名無しで書いておけば、いい話です。

そういう生き物を殺す人間の身勝手さを大分抽象化して、ついでに、女性ということにして、男女関係の話にしてみたら、直木賞が獲れたわけです。

逆にそうしないと獲れないという算段でそういう話を書く訳です。

そして、私達読者は、この話を男女の純愛あるいは悲哀の物語として、ありがたがって消費するのです。

直木賞の選考委員も男女関係の物語として読んで、賞を与えるのです。

本当は、鳥なのに。

そういうすべての人間の身勝手さを車谷さんはあざ笑っていたに違いないのですね。

小説という虚像に群がる人間すべてを嫌悪していたのです。

そういう他人を寄せ付けないところがある人だなと他の小説を読むと感じてしまいます。究極のブラックユーモアですね。

「話」というのは、独り言なのだなと思います。

独り言であるからこそ、心地良いのです。

以上、未だに、愛というものが何なのか分からない私の独り言でした。

Syrup16g COPY発売16周年記念ツアー「十六夜 <IZAYOI>」

3月20日にあるSyrup16gのライブに行こうかなと思っています。というか、チケット販売初日に一生懸命チケットを取りました。

で、その3月20日は最終日公演らしく、最近、サブタイトル最終夜「冥途」が追加されたようです。

冥途で明度でmadeでmaidです。

maidが冥途で明度なメイドをmadeした。的なあれです。

楽しみです。

酩酊感

ここ数ヶ月、様々な本を読み漁った結果、ある事に気づきました。

私にとって本を読むときに大事なのは、酩酊感のようです。

不条理という事なのかもしれません。

頭の隅から隅までビリヤードの玉がガンガンぶつかって脳内がぐちゃぐちゃになると、結果的にすっきりします。

あるいは万華鏡を覗きながら、歌を歌う感じです。

そういう感じを求めているっぽいです。

そういうのは一人称の小説とかゲームで再現しやすいようです。

そういえば、幼少期にダンボが酒を飲んで幻覚を見るシーンを繰り返し見ていたので、元々そういうのが好きなのでしょうか。

ポプテピピック

今期のアニメでポプテピピックというアニメをやっているのです。

これが何故か異様に面白いのですが、何故面白いのか分かりません。

馬鹿な私に誰か教えてください。お願いします。

そういえば

何だか最近やたらとブログを更新しているのは何でだろ?と考えてみたんですが、思い返してみるに、11月くらいに読んだ西尾維新さんのインタビューに、1年間に本を3桁くらい読んでるみたいな事が書いてあって、そんくらい私もやったるで!?と思った事がきっかけでしょう。忘れっぽいので思い出せて良かったです。

何でこんなに1月になって更新が多いんだろう?と思ったわけで、はて?と思い返したところ、11月から読見始めたいくつかの本を読み終わったということらしいのですよ。

しかし、だんだん、本の感想が長文になってるのはいかがなものかと思わずにはいられません。

何でかというと、長文を書いていると、脳みそが耳から流れ出すような快感を味わえるからなのですよね。

ただ、どうもイマイチ調子が出ないというか、脳みそをすべて稼働していない感じがあるのです。

けれども、毎日更新みたいな鬱陶しい事は無理ゲーですし、これがいつまで続くのやら。

読書のテーマは、「ステキなラノベに出会って、テンション上げていこう!」のはずなのです。

しかし、私はラノベを読むための脳内回路を構築せずに今日まで生き恥を晒して来てしまったようです。

そこでというか、同時に斉木さんのモニュモニュとコーヒーゼリー食べてる顔に癒されたり、ポプテピピックのオープニングが常に頭の中に流れているのです。

というか私という人間は目標を立ててそれを守るのが苦手なんですよね。

目標を認識した時点でそれは達成不可であるという矛盾を生きており、目標を認識する訳にはいかないという責め苦を受けているのです。

それは何故かって?ちょっと量子力学をかじれば分かることです。私が目標を認識した時点で、私の脳内という物質空間に変化が生じ、目標を見失いました!隊長!もう何も見えません!みたいな事になるからです。

現実はおろか自分の脳内にすら触れてはならないという責め苦を生きているのです。