独り言、他者、死ニ場所を探して彷徨う

最近、性愛の本とか読んでいて、最近出版されたラノベとかも読んだりして、どうして人間が人間を好きになるのか?みたいなことを考えていたのですよ。

 

で、結論としては、相手の中に自分が投影できれば、相手を好きになり、投影できなくなれば、好きでなくなるということなのかなと思いました。

何か、普通の結論ですみませんね。

 

で、どうして純愛の「話」(小説とかアニメとかゲームとか何でも)が面白いのかというと、結局は、ヒロインが「他者」ではなく、「自分」の一部だからなのかな?

と思ったわけで、またまた、普通の結論ですみませんね。

 

けれども、「ぼくのかんがえたさいきょうのびしょうじょ」みたいなの、そのままを出すと、やはり、自分の延長であると気づかれてしまうのです。

しかし、全くの他者、本当に現実世界に存在する女性を描いても、読者からすると、その行動はちょっと。。。とかその言動はいかがなものか。。。と、現実世界のイライラを「話」の中でも、体験せずにはいられない訳で、それもそれで「話」が売れない訳です。

 

なので、読者に気づかれずに、「自分」の延長を出す必要がある訳で、それが自分の中の異性に目を向けることなのかな、と思った次第です。

 

自分の中の異性に目を向けて、詩を書いた人とか

萩原朔太郎 詩集〈月に吠える〉全篇 従兄 萩原栄次氏に捧ぐ

の「恋を恋する人」

 

女性になりきった妄想で自慰行為をした人とか

どうすれば愛しあえるの: 幸せな性愛のヒント

 

その辺を見ていると、「自分」というものを突破できるのかな?という気がしてきます。

 

で、このブログではよくあることなのですが、全然違う方向へ話の舵を切ります。

車谷長吉さんの

赤目四十八瀧心中未遂

は、私小説家の書いたフィクション小説という位置づけですが、アヤちゃんという女性が出てきて、これは完全なるフィクションの女性らしいのです。

しかし、よく読んでみると、このアヤちゃんというのは、実は人間ですらないのかな?という気がしてきました。

 

  • 猛禽類のような目
  • 迦陵頻伽という極楽浄土にいる鳥の刺青をされている
  • 「生島さんがさばいてた牛や豚の肉みたいに焼いて喰おうと、勝手や」

 

とあるように、アヤちゃんというのは鳥を思わせる女性です。

これですが、鳥を思わせるというより、鳥そのものではないのか?という気がしてきたんですよね。

要するに、車谷さんが厨房で毎日、捌いていた食用の鳥です。

安月給に耐えて、いつか自分を馬鹿にした人間どもを見返してやりたいと思いながら、絞め殺していた鳥です。

下っ端の自分が早朝に出勤して、無心に捌く鳥です。

人間が生きるために殺される鳥です。

可哀想な鳥ですが、時間までに殺して捌き終えなければ、自分が上の人間から暴行を加えられるので、黙って殺す鳥です。

このまま鶏肉を抱えて店から逃げ出し、鶏肉と一緒に心中したいと思ったこともあったのかもしれません。

人間生きていると、悪意ある、もしくは、酷くすると悪意のない他人から、人間以下の扱いを受けることもある訳で、そんな時は、しばらくは自分が人であることを忘れて、一塊の肉片の中に自分を見出し、肉片に恋をすることもあるのですよ。そうなると、肉片に対する恋愛感情が生まれてしまい、捌くのが苦痛になってしまうのです。

 

しかし、多くの人間にとってそんな現実の辛さなんてどうでも良いのです。

そんな「話」はたくさんその辺に転がっており、誰も見向きもしない「話」です。

某匿名掲示板に名無しで書いておけば、いい話です。

そういう生き物を殺す人間の身勝手さを大分抽象化して、ついでに、女性ということにして、男女関係の話にしてみたら、直木賞が獲れたわけです。

逆にそうしないと獲れないという算段でそういう話を書く訳です。

そして、私達読者は、この話を男女の純愛あるいは悲哀の物語として、ありがたがって消費するのです。

直木賞の選考委員も男女関係の物語として読んで、賞を与えるのです。

本当は、鳥なのに。

そういうすべての人間の身勝手さを車谷さんはあざ笑っていたに違いないのですね。

小説という虚像に群がる人間すべてを嫌悪していたのです。

そういう他人を寄せ付けないところがある人だなと他の小説を読むと感じてしまいます。究極のブラックユーモアですね。

「話」というのは、独り言なのだなと思います。

独り言であるからこそ、心地良いのです。

以上、未だに、愛というものが何なのか分からない私の独り言でした。