明日、ボクは死ぬ。キミは生き返る。

「おまえの寿命の半分で、彼女をたすけてやろうか」 

笑いをこらえるようにそいつは言った。 

だから俺は言ってやった。

「やってみろよ。くそ野郎」 

俺は、訊いてみたかったんだ。 

世界から消えるその瞬間。彼女に、この残酷な世界がどう見えていたのかを。
 

という感じで、主人公は見ず知らずの、目の前で交通事故死した少女の魂を自分の命の半分と引き換えにして、自分の身体に住むことを許します。正確には主人公には命を与えたという自覚はなく、最初は記憶喪失になったと勘違いします。一日おきに記憶がなくなるという怪奇現象に見舞われます。記憶がなくなっている間に死んだ少女が主人公の身体を使っているという話です。

こういう話を無邪気に読めないんですよね。
まず、普通の感覚として、これまで会ったこともない人間に自分の命をほいほい与えるものでしょうか?自分の身体の安全が確保された状態であれば、他人を助けようとする人はいるでしょう。しかし、身内でもなく会ったこともない人間に易々と命を与える人間はそうそういません。この時点でとちくるっています。
また、命を与えられた少女も少年の身体をぞんざいに扱います。
交通事故死というのは疑わしい性格の壊れ方です。
これは他人の身体をどう扱うか?という倫理的な話です。あるいは、性行為の時に相手の身体をどのように扱えるか?という話です。他人の身体を扱うのにはマナーが必要です。マナーが守れない人間は、他人の身体に影響を及ぼしてはならないので、一人でいる必要があります。一人でいる為に開発される道具、話、映像などはたくさんあります。本来、一人でやるべき行為に他人を巻き込む場合、それなりの対価を支払う必要があります。
また、身体性の欠如した人間は容易に死にます。それは、本人の気持ちや意思などあまり関係ありません。自殺に限らず、自分の身の安全を確保出来ないので、普通の人がやらないようなことを平気でやります。例を挙げるなら、売春、薬、暴力、詐欺、殺人などです。それらを行う人間もそれに簡単に巻き込まれる人間もです。
これは、身体性の欠如した男女の話です。こういう男女はまともな人生を送れません。これは18禁という訳ではないので、何か微妙な感想になりました。そういうゲスの為のゲスな話というのであれば、それなりの感想を書くんですけどね。すみません。

 


と思ったんですけど、これ、元々は多重人格で主人公が苦しむ話らしいです。それを女性を増やしたりしてだいぶん修正したらしいですね。ヒロインも元々いなかったらしいです。保健室の先生も男性から女性に変更したらしいです。多重人格ということであれば、身体性の欠如に苦しむ主人公ということで辻褄が合います。要するに、自分で自分を傷つけてしまう人の話だから、ヒロイン(別人格)が主人公(主人格)に容赦がないのだと思います。作品の魂ともいうべき部分に修正を入れるのはどうかと思いました。
作者の人は、会社での立場が危うくなったり、病気で入院したり、イヤなことばかりが起こって、何かやろうかなと思ったと思ってラノベを書いたらしいです。やりきれない気分になりました。
18禁の方がよっぽどこういう類のテーマを真面目に取り扱っています。作者の人が元々書いた物語は18禁ではないので、ラノベの枠に作品を送るのは当然なのですけどね。
 

 

明日、ボクは死ぬ。キミは生き返る。 (電撃文庫)

明日、ボクは死ぬ。キミは生き返る。 (電撃文庫)

 

 

小谷野敦『友達がいないということ』

真面目な話、小谷野さんが取り上げているような定義の「もてない」や「友達がいない」という人は、育てられ方に問題があるのではないでしょうか?『もてない男』とは、すなわち母親に性的虐待に近いことをされて育った男性ではないのか?そして、それを自覚できずに「もてない」という事実誤認をしているのではないのか?と思いました。また、「友達がいない」というよりも、この世に生きることを誰からも許されていない、許されたことが未だかつて無いと言った方が良いのではないかと思ってしまう定義でした。もし、そうであれば、本人がいくら何かを耐えたり、努力したとしても何の意味もありません。暗澹たる気持ちになりました。

小谷野敦『もてない男』

人から聞いた話だが私は、いつも早く二次元美少女になりたいと言っているらしい。確かに、自分の中では一刻も早く二次元美少女になって、主人公と楽しい学園生活を送りたいと思っている。しかし、それを公言しているとは思わなかった。

エロゲの主人公というのはもてない。彼女いない歴=年齢だったりする。

ああ、早く彼女が欲しいな、といつもつぶやいているわりに何もしない。

何もしないが、いつの間にか女の子が5人くらい言い寄ってきて、うわっ、今朝のパンツ窃盗犯!とか何とか濡れ衣を着せられているうちに、女の子がウェディングドレスを着ていてハッピーエンド的な音楽が流れつつスタッフロールが流れて、ついでに私の目からも涙が流れていたりする。

あれっ?と思う。おかしいな?と思いながら、「続きからプレーする」的なボタンをクリックして、今度は気づいたら、別の女の子の裸を覗いた罪で女の子がウェディングドレス姿で笑い泣きしながら、また同じ音楽が流れて、スタッフロールが流れて、私の目からも涙が流れて、ごみ箱からティッシュが雪崩れてみたいな状況になっている。

明らかにおかしい。もてないはずだった主人公が何故かこの時点で2回も婚姻しているのだ。時空に歪みが生じている。

これは、ゲームの話だが、現実でもおそらく同じことが起こっている。

もてない男』なんて本を書いた小谷野さんはそのことをご存じ無いのだ。いや、無かったという過去形かもしれない。

小谷野さんが作中で何度も名前を挙げている宮台センセイや上野千鶴子はおそらくエロゲの主人公やヒロインなのだろう。

それがたまたま三次元世界に一時的に具現化しているだけに過ぎない。

あちらの世界での断片的な記憶を頼りに適当なことを言っている。

宮台センセイが泣かせたヒロインの数はエロゲ100本分くらい、上野千鶴子が泣かせた主人公の数はエロゲ500本ぐらいだろう。

だから、硬派で人の道を踏み外したことの無い小谷野さんには分からないのだ。

この世でモテることに果たしてどれほどの意味があるというのだろうか?

この世でモテることなんて何の意味もないという小説を書いた作家は結果的にこの世でもてるようになり、神経を病み、早死にした。

モテるなんて意味がないなんて書きつつ本当はモテたくて仕方なかったのだ。

その結果、自分の言葉が喉に絡まって窒息死した。

 

もてない男―恋愛論を超えて (ちくま新書)

もてない男―恋愛論を超えて (ちくま新書)

 

 

 

筒井康隆 薬菜飯店、法子と雲海

  • 薬菜飯店

薬菜なのか厄災なのかよくわからないのですが、身体に良いとされるものは本当に良いのか良くわからないと思わずにはいられない内容でした。しかし、中国料理を食べに行っただけなのに中華娘に特殊サービスして貰えたのはラッキーだったというか青娘が可愛すぎました。この話は、荒木飛呂彦トニオ・トラサルディーの元ネタらしいです。

 

  • 法子と雲海

夢と虚構の素晴らしさを説く法子様と愉快な仲間達の話です。ある日、法子様が一人の村娘に懸想します。懸想して庵に戻って来ないので、弟子の雲海が探しに行くと法子様は何と村娘の家の戸口で寝起きしていて皆狼狽しているという話ではありませんか。しかし、当の本人は見当たりません。5日後にようやく法子様は戻ってくるのですが、放心状態です。何が起こったのかというと、村娘の夢に住むことに決め、現在進行系でそれを実行しているというので驚きです。というか筒井康隆という人は頭がおかしいのだなとこの時気づきました。何故、法子様が一人の村娘に惚れたかというと法子様の中の女性性にその娘がそっくりだったからではないか、と解釈した弟子の雲海は法子様を現世に取り戻す為に、法子様の夢に闖入し、法子様の目の前で村娘を犯します。これで村娘は法子様の理想では無くなったのだと満足して雲海は夢から覚めます。しかし、法子様はその後、村娘のことには言及しませんでしたし、そもそも法子様は男女の事に関心がないのだ、まして近くの村の小汚い田舎娘が誰に犯されようと知ったことではないのだったと締めくくられます。数日後、村娘と顔を合わせた雲海は思いっきり横っ面を張り倒されるというオチです。

いやはや、夢と虚構というのはかくも素晴らしいのですね。というか筒井康隆の小説は読んだのはこれが初めてですが、こういう方向に頭がおかしいのだとは知りませんでした。

 

 

薬菜飯店 (新潮文庫)

薬菜飯店 (新潮文庫)

 

 

夫・車谷長吉

 

夫・車谷長吉

夫・車谷長吉

 

 

詩人で車谷さんの奥さんである高橋順子さんがお書きになった本です。

車谷さんと高橋さんの馴れ初めから、車谷さんが急逝されるまでのことが描かれています。

車谷さんと高橋さんは大変仲の良いご夫婦だったのだなということが伝わってくる内容でした。

そして、車谷さんは幸せ者だったのだろうなと。

車谷さんと高橋さんの馴れ初めは、車谷さんが高橋さんに一方的に絵葉書を送り付けたところからスタートします。

そんな一方的な絵葉書を11枚も送り付けたそうです。

その絵葉書の内容がまるで独り言で恐ろしいものを感じて返事など書けなかった。と絵葉書を送り付けられる度に書いてあるのが面白かったです。

車谷さんの小説で何が面白いか、というと、毎回冴えない男が唐突に、美人を見つけ、後をつけた後、唐突に美人に話しかけるという狂気を孕んだところだといつも思っていたので、奥さんにも似たようなことしたのか、と可笑しくなりました。ただし、奥さんに対してはかなり用意周到ですが。

面白かったのはそれくらいとは言いませんが、最後に車谷さんがこの世を去る展開であることは目に見えているので、読み進めるのが憂鬱でした。私はどうも最後に人が死ぬ小説や読み物が嫌いで、フランダースの犬なんかも大嫌いです。

それから、奥さんがいたからこそ、鹽壷の匙や赤目四十八滝心中未遂が世に出版されることになったんだろうなと漠然と思いました。

高橋さんが結婚したいと言わなければ、車谷さんは出家するか自殺していたと思いますので、高橋さんも変な人に関わってしまったなとちょっとは思ったでしょう。

そして、車谷さんに無断で小説に書かれた人々は、早々に出家するか自殺すれば良かったのにと思っていたに違いないのですが、それは現実のつまらないだけの話なので言及しない方が良いものでしょう。

今更ですが、車谷さんの小説の面白い部分は、主人公のダメさと車谷さんの女性に対する洞察力とそこから生み出される女性が発するふとした瞬間の言葉の輝きであり、私小説的な部分ではないと私は思います。

二次元愛と三次元愛が混然一体だった人達の本

宮台真司二村ヒトシ『 どうすれば愛しあえるの 幸せな性愛のヒント』

という本を読みました。

宮台センセイは、私と同年代に生まれていれば確実にエロゲオタ(主に純愛系をプレイするが、ときどきフェチ系もプレイする)になっていただろうという感想を抱かせてくれる本でした。

センセイは、三次元世界にも愛が存在する時代に生まれて幸せだったんだろうな、と。

愛のある数多くの女性達に支えられて先生もようやく愛が分かるようになりました、という集大成のような本でした。

愛に疎いがゆえに、ナンパ師になり、性愛を研究し、援助交際を世間に暴露し、という過程を経なければ愛を実感できなかったのでしょう。

迷惑にも程があります。まあ、仕方ありません。センセイの若い頃にはエロゲがありませんでしたからね。

作中で言ってることも抽象的過ぎてところどころ分かりません。例えるなら、『終ノ空』の間宮卓司様のようです。

ただ、悪い人ではなく鈍感なだけですし、センセイが言いたいことは、おおむね理解も共感もできました。

社会の内部で生きることができない人間が、性愛にこだわります。センセイもそんな人間の一人だったのだろうと。

宮台センセイの最初の自慰は、サイボーグ009のサイボーグ003ことフランソワーズ・アルヌールという女性になりきって拷問されているという妄想がネタだったそうです。

ベテランの風俗嬢曰く、男性の3割はセンセイと同じく、自分が女になり切った妄想で興奮するそうです。

宮台さんは、女性の心に映るものを自分自身の心に映し出して興奮するタイプとのことでした。

そういった女性との心の相互浸透の挙句、妄想が自分のものか相手のものか不明になる状態が究極の性愛ではないか、と思っていらっしゃるようです。

そういう性愛の形は大変美しいと思うのですが、美しいが故に実現が困難であると思います。

性的嗜好の方向性が実現困難だったからこそ、宮台センセイは長い長い旅をするはめになったのではないでしょうか。

対談者の二村さんも同じ方向性で、女性になりきっていたそうです。その果てに、AV監督になったと言っています。例として、キューティーハニーになりきって美少年を犯す妄想をしていたと言っています。

同じ方向性なのですが、二村さんには宮台さんのような気持ち悪さは一切感じなかった訳で、分かりやすい言葉で適切に性愛を語っていらっしゃるなという印象を抱きました。

ただ、私はかなりの潔癖症かつ人間嫌いで三次元のアダルト関係は苦手で一度も見たことがないので、これから先も二村さんの作品を見ることはないでしょう。

しかし、両者とも何故か初期衝動がアニメですね。近所に住んでいた年上の女性のふとしたしぐさに一目惚れしたとか、近所の色町に迷い込んだことがあるとかではないのが不思議です。もしかしたら、それが長い旅の原因ではないでしょうか?

 

さて、何故、宮台センセイが私と同年代に生まれていたら、エロゲオタになっていたのではないか?というと、先生が作中で嘆いておられるように先生の時代にはあった「正しさ」を追い求める人より、「損得」で物事を考える人が圧倒的に多くなったからです。その数の暴力に抗いきれずに二次元世界に安住の地を求めたに違いありません。三次元世界で愛を求めてさまようと、男性側はメンヘラ女性に、女性側はリア充を自称する見栄だけの男性に高確率でぶち当たる、という時代です。普通の性的嗜好の人間であってもお互い思いあう恋愛が困難な時代に、宮台先生のような一捻りか二捻りかあるような妄想に喜んで付き合いきれる女性に出会える確率はかなり低いでしょう。

という訳で、先生のような強者であっても、早々に二次元世界にドライブインして三次元世界には二度と帰ってこなかったかもしれません。

センセイの時代にオタクだった人間と違い、今(というか10年くらい前)のオタクは、環境が許せば、オタクでもなんでもなく、普通に愛のある恋愛を心の底から望んでいるような層だったのですよ。

まあ、オタクの考える愛なんて普通の女性からするとキモイだけの妄想であり、「正しさ」というのも一面的なものでしかないのかもしれません。「正しさ」の多様化が進んで、全体を調整するには「損得」で割り切るしかない社会になったとも考えられます。

しかし、作中で宮台さんが女性は、損得勘定で物事を測る男性より正しい男性を選ぶと言っていますが、それは、女性は、損得でしか物事を考えられない生き物だから、自分に無いものを男性に求めるのではないでしょうか?

例えば、人類が文明を生み出す遥か昔、未だ未知の脅威や危険にさらされる確率が高い環境に暮らしていた頃のことを想像してみます。その際に、力(この場合、物理的な意味で)のある男性が正しさをもって集団を統率する場合、集団内から裏切り者が出る確率や集団外からの脅威に晒される確率は、男性より力の劣る女性が正しさを以って集団を統率する場合に比べて、少ないと考えられます。何故なら、正しさを暴力で覆すことは容易だからです。あるいは、いざとなったときに、正しさを行使する女性自身が集団を代表して戦い、集団内のメンバーを守ることができないためです。このため、正しさと力は常にセットで行使されるという方向性が合理的でしょう。故に、正しさと力を同時に発露できるような方向性に淘汰圧が働いた(進化してきた)と考えれば、女性が正しい男性を「損得勘定で」(=合理的に)選びたがることの説明が可能です。男性側では正しさは集団を統率する能力として生存上有利に働きますが、女性側では正しさは関係ありません。しかし、これはあくまで集団レベルでの仮定であり、個人レベルで見れば、正しさを貫く女性もいるでしょうし、損得感情が得意な男性もいるでしょう。正しさを貫く女性を多くの男性が支持して保護することで集団内の強力なルールを敷いた集団もある程度の定住が可能な段階には出現したのかもしれません。また、一人の人間が文脈によってそれらを上手く使い分けることも当然ながらあります。

また、そういう男女差があるのであれば、子育てにおいては男性というのは極めて重要な役割を担います。男性が正しさを示すことで、子どもがそれを会得することができ、女性が損得勘定によってたまには正しくなくてもええんやで?という優しさとルールの例外を示すことで、子どもは様々な価値観があることを知ることができます。

しかし、こういった妄想に近い仮説が真であるかは、人類の神経学的研究や生物学的あるいは人類学的研究が進むのを待つしかないと思います。

 

作中で性愛による変性意識状態という時間の感覚を喪失するような体験することが良いとされています。けれど、それって結構当たり前というか、性愛の関係に無くても、気が合う相手と一緒にいれば時間感覚は狂うものではないでしょうか?

恋愛について考えたり体験したりするほど、木乃伊取りが木乃伊になる的な何かで、言うことが私のような二次元美少女(=男性の中の女性性)をこよなく愛するキモオタ的になってくるのだと思いました。

それから、女性も男性に願望を伝えて欲しいという切なる願いを作中で何度も吐露していましたが、意外と女性というのは男性の思う理想の女性を演じることに最上の喜びを感じ、それだけで十分満足できるのではないか?と思います。それは、上記に書いたように男性の正しさに女性が合わせることが生物学的な意味で合理的な生存戦略だからです。

なので、やはり、女性になりきって犯されたい願望が最上の喜びであるという男性を満足させられる女性を見つける旅は長くならざるを得ないのではないか、と。そして行き着く答えが、正しい巫女さんか正しい上に強いセイバーであるという事なのです。

 

 

 

JKハルについての追記

lilium-martagon.hatenablog.com

の追記です。

 

久しぶりにこういう気持ち悪い小説を読んで、昔の記憶が蘇ってきました。

こういうジャンルのものは、時々、苦手なものがあって、宮崎駿監督の千と千尋の神隠しなんかも宮崎駿の頭の具合を疑うほど、気持ち悪かった覚えがあります。

今回、偶然、そういう話に行きあたってしまったのですね。

ネット上で、JKハルの感想を漁っていたら、これ、宮台だという意見がありました。

そう言えばそうですね。宮台さんは、女子高生が援助交際を新しい恋愛の形として消費していると勘違いして、世にそのような言質をばらまいた人で、売春と援助交際は違うと主張した人です。残念ながら、円光をしていた女子高生のその後はどの人も悲惨だったそうで、宮台さんは後悔したらしいですね。絶版になっていますが、にまとまっています。

JKハルの作者さんにしても、宮台さんにしても、女性というものに幻想を抱きすぎです。

男性にしても女性にしても、同じサルの仲間です。

男性と同じように女性も愚かなのです。

援助交際が恋愛な訳ありません。売春です。楽しく援助交際をしていた女子高生がどこにいたというのでしょうか?

90年代と2000年代のそういう雰囲気に対する反感と恐れがあったからこそ、私は二次元美少女という幻想に理想を抱くという方向に成長したのでした。

どうして今更、こんな時代遅れ感のあるテーマの小説が出版までされるのでしょうか?

しかも、出版社は男女平等を叫びつつ実際は男尊女卑の社会に閉塞感を覚えている女性の共感を呼ぶに違いないと言っています。

twitterでは10代に読んで貰いたいなどと言っている人間もいます。

完全に頭がイカれています。

もしかしたら、この小説の出版社やtwitterをやっている人間は異世界に存在するのかもしれません。

男女平等を主張して良いのは、男性と同じような境遇で働いている女性だけではないでしょうか?

普段からパンツパンツ温かいパンツ♪と連呼して失笑を買っている私には男女平等思想的なものはどうでもいいのですが、老婆心ながらそう思います。

極端なことを言うのであれば、女性が売春以外のことで利益を得ようとした際に立ちはだかるのが男尊女卑のルールです。

男女差を利用して利鞘を得る職業で、男尊女卑の理不尽さを主張するのは最もおかしなことです。

男性の性欲をありがたいありがたいと思いながら、お仕事なさってくださいと思うだけです。

作家の先生や宮台先生のような学者の先生方が、人間の知識欲をありがたいありがたいと思いながら、日々仕事し、お金を得ているのと同じことです。

どんな職業にもメリットデメリットがあります。このJKハルでは、娼婦という職業のデメリットのみをピックアップして男尊女卑の理不尽さを説いているに過ぎません。

論点がズレています。

娼婦という職業を選択すると、金銭を得る以上に現世ではデメリットが大きいというだけです。

作中にあるように、女性(娼婦)が男性を伴わずに、外食することで男女平等を主張した気になるというのは明らかにズレています。

異世界の男性の常識からすると娼婦だから外食しているのだろう?ぐらいな感想しかないでしょう。

異世界においては、ハル以外の女性は、身内に売られたとか、強制的なやむを得ない事情で娼婦という職業を選択しています。

その女性達が男尊女卑な社会を理不尽に思って地道に行動するのならまだしも、主人公のハルは現世で援助交際をしていたという設定の上、異世界ではチート能力持ちです。そんな恵まれた人間にどうして、一般的な女性の読者が共感を覚えることができるのでしょうか?

ハルも現世で半ば騙されるようにして援助交際をしており、異世界に飛ばされても娼婦を選択するしかなかった訳ですが、その後の娼館でのハイテンションっぷりは、薬をキメて強制的に体と頭を動かしているだけにしか見えないです。ハルに何か崇高な意思が存在するわけじゃあないのですよ。目先の金に困って調子に乗って売春した頭の悪い女子高生が異世界でも同じようなノリで生きていたら偶然何とかなった奇跡のエピソードというだけです。本来であれば、どうしてそこまで頭が悪いことをしてしまうのか?という部分の背景に絶望的な世界観が潜んでいるのですが、その辺は適当に誤魔化されています。

ここまで読み込むと共感というよりも同情しか沸いてこないのですが、その辺、作者の人はどういう意図で書いてるんでしょうかね?

理不尽な境遇で働いていても、薬キメながら明るく振舞っていればいつかは報われるとかそんな話でしょうか?

それ、なんてアンデルセンマッチ売りの少女ですか?

娼婦という職業を選択することのデメリットあるいは選択せざるを得ない状況に陥る背景は、この小説の中では完全に無視されているのですが、これは意図的なものでしょうか?

デメリットよりメリットが大きければ、世の女性方は皆、娼婦という職業を選択します。

前の記事でも書きましたが、そういう意味で、この小説では娼婦は名前だけしか登場しないのです。

ハルという女性は男性向けによくあるようなタイプのヒロインではないので、勘違いする人が多くいそうですが、そういったヒロイン以上に幻想で、幻影で、偽物です。そして偽物である以上、このような不快なヒロインは別に許容する必要はないのではないかと思った次第です。こういうタイプの女性像が好きな男性のみが称賛すればよいのではないか、と。

 

実は、この小説は現世で薬をキメながら売春をした上、交通事故に遭ったハルが死の間際に見た幸せな売春ライフ()とかいう走馬灯か何かなのです。

いやいや、実はハルというのは、ヲタクの千葉君の想像上の人物で、童貞のまま死んでいった千葉君の怨念が見せる幻想という線も捨てきれません。

 

そういう感じの現実の辛さにつながる描写があると、本って結構売れるような気がするのですけどね。

すべてが虚構のそのまた虚構のまま終わりました。