人であることの悲しみ

いつだったか、アニメの感想にかこつけて、女であることの悲しみについて書きましたが、それは、題材が女であることに偏っていた為で、男であることの悲しみというものもあると思います。もっというなら、男とか女とかしちめんどくさい社会的なものを背負わざるを得ない人間の人間であることの悲しみというものが、根源にある気がします。今日では社会性の無い動物的な男女の関係というのは野蛮だのふしだらだのと言われますが、人間であることの悲しみを知った男女が動物的に交わったりするのは文学作品などでよくあることです。そういう悲しみが感じられればそれはその人にとって文学になり、それが感じられず、何か汚らわしいものに感じられれば、卑猥な文章ということになります。

例えば、うちの母などは白洲正子を見て、まあ、男を侍らせてはしたない、という感想を抱き、川端康成の作品を、一昔のメロドラマなどと評しますが、それは、彼女が母という女だからであり、人間としての悲しみだけに身を委ねられる人々の事が良く分からないからだと思います。それもそれで、悲しい人間の性ですが。

つまり、文学などというものをしようと思うのならば、男であったり、女であったりとどちらかの立場もしくは社会的な立場(わかりやすく言えば上から目線とか庶民の視点とか)によりどころを見つけ、そこから言葉を発信してはいけないということであるような気がします。

そう考えると、女流文学などという呼び方はちゃんちゃらおかしいものであり、単に生物学的に女である人々が何かしらの文章を書き連ねているという方が正しいです。女流文学と呼ばれるものの中には、人間としての悲しみの表現されていない、女という立場のみからしか共感の出来ないようなものもありますが、それはきっとこの文脈上の定義では文学とか芸術とは違うものになると思います。

まあ、今思いついたから書いただけでこういうことはどうでも良いことですが。

私がそう思うというだけで、上から目線で「愚民どもは善悪の判断が出来んのだからインテリジェンスな俺が卑猥な漫画は規制せねばならん。ん?俺の小説が卑猥?あれは文学だ。お前ら見る目が無いな。」と言っても別に良いと思います。それはそれで真実である気がします。