今日は

山本周五郎氏の命日です。

高校の時、読書感想文を書くための対象となっていた本の一冊に、『さぶ』がありました。

実は氏の作品はその一冊しか読んだことがありません。

『季節の無い街』は冒頭1,2ページを読んだだけでまだその世界観を理解できていません。

いつか読もうと思っている間に結構な時間が経ってしまいました。

けれど、それはまだその本を受け入れるだけの土壌が私の方に無いから、最後まで読み進められないのかもしれないとも思います。

昔、読書家の友人に本を読むことは現実逃避だと言われた事があります。それは読書家である自分自身を否定するちょっと自虐の入った説だったように思います。

その友人の言を含めて考えるに、読書というものは頭では理解できても、全身で理解することはできないものだと思います。自らの中に予めその内容に類した経験があった場合の方が、その経験が無い場合よりも、より深く、多面的にそれらの言葉を理解できるような気がします。

しかし、逆に予め頭で理解しているからこそ、全身で理解できることというものもあるような気がします。けれどもそれは物事の感じ方に予め折り線をつけておいて、いざ折るべき時が来たらそれに沿って折る様なものでもあります。

どちらが良いということは無くて、どちらもあって困らないものだと思います。(どちらも必要なものだという言い方はあえてしません。)

ちょっと備忘録のような内容になってしまいました。





よっぽど、今日がバレンタインデーなどという日であることが受け入れられないのだと思います。

これだからオタクは困ります。

たとえデパートにチョコレートを買いに行ったとしても

「チョコレート買いに行きましたあ~!!とってもチョコカワイイ!!わたしがもらいたいヨ!」

などとあけっぴろげに報告できないのが駄目です。

「この度は申し訳ございません。このような浮かれた行事に強制的に参加させてしまい、どのように償えば良いのか分かりません。人が人であることは悲しいことです。物の交換と言うのは紀元前○○世紀にはすでに隆盛で…」

などと頭の中では言い訳が嵐のようですが、上手い言い訳が思いつかず、結局、「申し訳ありま…せ…ん。」と言うしかないかと心に決め、いざ渡そうとするも、


路万健康(宙のまにまに)にも関口巽魍魎の匣)にも蟹江さんと雪絵さんがいるではないかということにはたと気づき、義理チョコを渡すための短い言い訳を考えねばならぬと本棚を漁るのです。

結局、アニメの話でした。デュラララ!!を見ないといけないです。