活字が嫌い

子供の頃から本ばかり読んできました。けれど、今は活字を三行読んだだけで頭がくらくらします。

書く文章も支離滅裂です。

何でそうなったのか、というと十代の終わりに何故だか急に単語の意味するところのものが無限にあるような気がしてきてしまったからです。

例えば、「なすびが庭の畑になっている。」

という文章があったとしたら、「なすび」が意味するところのものというのはおそらく野菜だと思うのですが、それが「紫色のなすび」なのかまだ熟れていない「青いなすび」なのか、はたまた、「京なすび」なのか「長細いなすび」なのか、どれなのかが先ずよく分かりません。

同じような感じで「庭の畑」もよく分からず、何でこんな不確かなもので私は今まで色々な事を理解できていたのだろうと、それこそ涼宮ハルヒに世界を崩壊させられたような気分を味わいました。

何だかこういう風に具体的に説明するとちょっと上手く説明できていないなと思うのですが、一応読めるけれど、凄く時間がかかるし、気持ち悪いし、気分は晴れないし、何が書いてあったのかいまいち気持ちが理解できないし、感動したり楽しくなったりしないという感じです。

全ての文章がそうであるという訳ではなくて、書類だとか数式だとかある程度、きちんと定義された概念がある言葉が並んでいる文章は割りと平気にすらすら読めるのですが、小説だとかは全くよく分からなくなってしまいました。普通の感覚で言うと哲学書を読んでいるような感じです。

それで、まあ、人の書いた文章を読むことが極端に苦手になってしまった訳なのですが、どうやら私の書く文章というのも大変読み辛いらしく、困ったなーと思っています。

自然言語ではなくプログラミング言語的な何かでやり取りするといいかもしれないなんて少し考えます。

何かのものの本を読むと人間というのは言葉で考えるから高い知能を有するらしいです。

言葉によって思考し自我を保つのだとか何とか。

つまり、思考しているのは「私」であって「あなた」では無く、「私」は「木」では無いし、「概念」でもない。けれども、「私」は「概念」を「思考」する。

とかそんな感じです。

なので、人の言葉も分からず自分の言葉もめためたな私は人間じゃないのかいな、と思ったり思わなかったり。

これ読んでくれた皆さんもくれぐれも言葉を失わないように気をつけてください。

人間じゃなくなります。

昔の日本人が言霊信仰なんてものを持っていたのもこのせいかもしれません。