物語性

車谷長吉氏の小説には近松門左衛門が言った「虚実皮膜」が鮮やかに反映されている。「私小説」と銘打っていながら、作者の体験そのままを小説にしているのではない。作者によって創作された部分を大いに含む小説なのだ。

そもそも、人間(主体となる人間)の認識できる事実というものは全て、客体が表現する主観である、と私は思う。それはお昼のワイドショーを思い出していただければ容易に想像がつくだろう。番組制作者の言いたいことが番組に反映されているのであり、番組で取り上げられる芸能人や一般人の意図したことや伝えたいことが反映されるわけでは無いのだ。

そのように考えると、人間の表現する媒体は、すべて物語性を含む。この世に、事実など存在しないのだ。あるのは事象のみである。

よく言われる「客観的事実」なるものは存在しない。公共性の高い新聞、テレビ、その他報道の類であっても、それらの記事を書いた人間の「思考」(思想、所属する社会の常識、)を反映する物語なのである。けれども、世の中はこの物語をあてにして動く。「近畿地方震度7の大地震がありました。余震の可能性がありますので近隣の皆様は、○○に避難してください。」という報道を聞いて、九州地方の人が「地震が来たのは嘘に違いない。テレビ局の陰謀だ。明日の大阪での会議は大事だから何が何でも行くぞ。」などとは思わないだろう。

特に自分に関係、関心も無い事象については、報道の類や本に書かれていることで済ませるだろう。日本の義務教育を受けた人間であれば、この世は三次元空間であり、地球は太陽の周りを廻っており、宇宙空間に飛び出さないのは重力があるおかげだと信じている。「オタクはキモイ存在であるし、金髪の女子高生は援助交際をしている。サラリーマンはスーツを着ているし、日本経済の未来は暗い。」これらのような誰かの主観をまた誰かが受け取り、受け取った人間の主観により、「人間はちっぽけな存在だ」「日本人は100年後には存在しない」のような新たな主観が生まれる。

程度の差こそあれ、世の中は主観と主観のぶつかり合いで成り立っており、それを端的に、嘘と嘘の掛け合いで成り立っているといっても過言では無い。

アニメやアイドルというのは、この嘘の部分が多い方が良い。言い換えれば「理想」という言葉になる。

けれども、ある程度大人(笑)になると、事実なるものを重要視するようになる。萌えアニメは卒業して、ドキュメンタリーアニメを見たがったりする。恋愛小説はやめて、歴史小説などを読み始めたりもする。けれども、ドキュメントにしても歴史にしても誰かの主観であり、また別の誰かにとっては嘘なのだ。

では、一体どうすりゃ良いのか、というと、自分の所属する社会の常識をきちんと守り(中庸)、できるだけ不快な嘘に触れないようにするか、あらゆるものを疑い全てを自分の主観の内側に納めるかである。けれども、後者を選択すると多くの人は精神を壊す。主観を持ちうる主体「私」の範囲がまず分からなくなる。主体といっても、その主体自体が客体によって形成されてきた以上、主観は明確な範囲を持たない。客体によって形成される、というのは、人間はこの世に生まれて以来、言語獲得から習慣、文化に至るまで周りの環境と人間の影響を受けながら、自らの思考を形成してゆくという意味である。

そして、車谷長吉氏の小説にはこの両方が存在する。「他人の言質を呼吸して生きている私」でもあり、「サラリーマン崩れの私」でもある。主観の範囲を考える「私」と自らの背景、来歴を持つ「私」が「死に場所」を求めて「漂流する」のである。故郷という自分の文化背景を追われ、大学院に行って哲学者になることを許されなかった「私」である。どのコミュニティから見ても車谷氏の生き方は「阿呆」であり、車谷氏自身は「阿呆者」である。「漂流」はするが「漂着」はできない。

そのような立場の人が語る(騙る)物語だからこそ、慧眼を持つ白洲正子の目にも留まるし、別のある一つの次元において映画化されても栄えるのである。

そして、車谷氏が「鹽壺の匙」では「私の精神史」を書きたかったと述べていたように、彼の小説は一貫して彼の主観を通した「歴史」である。複数の「私」を持った車谷氏が同じ現象に対して何度も記述を行う。記述の数だけ、彼の主観、彼の事実が存在するのである。記述された現象は時系列に並べられ、「歴史」となる。けれども、かなり「嘘」の多い「歴史」、すなわち「精神史」である。

車谷氏の物語は物語として非常に完成度が高いが、作家の人間性を評価するための材料としてはこれ以上無い位に不適切な代物である。