読書 「本は読めないものだから心配するな」②

昨日の夜は眠くて、顔にこの本が落ちてきたときにはびっくりしたが、京極夏彦の本でなかったのが不幸中の幸いである。

人は歩くことが大切らしい。フィールドワーク。宮本常一の話も出てくる。

私は旅が大嫌いだ。カメラを抱えてのこのこ旅にやってくる余所者も嫌いである。特に取材と称して「彼らの真実」だけを切り取っていく連中は鍬を持って追い回してやりたい気分になる。そういう連中は自家用車でやってきて金も落としはしない。お前は一体どこの寒村の人間なんだという考え方だが、まあ、心が狭いだけなのである。

こういう私のような人間がいる土地への旅が許されるのは、スナフキンくらいのものであろう。スナフキンの旅の実態は不明である。

で、何で唐突に旅の話かと言うと、本を読むときもじっくり読まなくて旅のように大きな視点を持てということらしい。そんな読み方をすれば確かに本は読めるものであるとはいえないだろう。余所者は余所者でしかない。

ノマドには、実感のある話で納得も出来るだろうが、私は農耕民族である。

しかし、そんな極端でつまらないことが書かれてあるはずは無い。読めなくて心がくじけそうだ。


と書いたのが昨日。今日、帰宅途中に考えた。やはり私は旅をして他の土地を見てみようというような大らかな心が必要だと思った。心が硬いから本も読めないのだろう。心を柔らかくすれば、己の感覚や価値観を通して何かが見えてくるだろう。一般的に本を読むという行為はきっとそういう柔らかいことだ。そういう柔らかい体験の積み重ねによって物の見え方も広くなるのだろう。


と思ったのが今日。これから読み進めて行く上でこれが当たっていれば良いなと思う。

違ったらどうしようと思いつつも少し不安が減った。