強要されるということ、使われる側

私の通っていた高校は、入学して早々、「クラス単位で連続出席日数を競う」というものがあった。どういうことかというと、入学したその日からクラスの中で誰か一人でも休めばゲームオーバーというサバイバルがクラス対抗で行われたということである。今の私なら、そういう馬鹿げたルールをきいた次の日に早速欠席して、クラス中の冷たい視線を浴びる役を買って出るだろうが、当時はそんなことも思いつかないお馬鹿な高校生だった。体調が悪いのに馬鹿げたゲームのためにたいして役にも立たないわかりにくい授業を聞きに学校に来るなどというのは、本当の馬鹿である。教師の意図は「学校を休まないように体調管理もするだろうし、学校を休まないように声を掛け合ってクラスの絆が増すだろう」というくらいなものだろうが、そういう理想は大抵失敗するのである。何故かというと、最近の並みの頭脳の若者は、与えられてばかりで、自分で考えることもせず、それでいて自分の目の前の利益にだけは聡いという頭の悪さだからである。

そういう頭の悪い集団の場合は、指導者である教師が上手く舵取りをするものであるが、教師の側も頭が悪かったのかもしれない。そういうことだから後はよろしく!と放置された。

また、そもそも理想のための前提条件が間違っていて、学校に来たところで得られるのは内心点と出席日数だけという有様で、肝心の授業はどうかというと聞いても聞かなくてもどちらでも良いというものだったからだ。

それで、結局どうなったのか、私のお馬鹿な脳みそはあまり事実を覚えていないが、クラスで最初に休んだ子はその後、登校拒否に近い状態になった。ちきんと卒業はしたが、お馬鹿なクラスメイト達と学校に嫌気がさしたのでは無いかと思っている。それが後の人間失格の主人公である。いや、違うが似たようなものだ。

お馬鹿なクラスメイトと書いたが、どうお馬鹿かと言うと、自分さえ良ければそれでいいという考えが基本にある人の気持ちなど少しも考えない、考えたとしても分からない振りをする馬鹿さを持った人達である。人間というのは誰でもそういう性質を持っていて当たり前なのだが、私のいたクラスはそういう人間の残念な部分がむき出しになったクラスだった。社会というのは、自分さえ良ければそれでいいという人とやたらと人と協調したがる人と人が幸せであれば自分のことなどどうでも良いという人が程よい割合でいるのが普通である。けれども、不幸なことに私のクラスは、登校拒否一歩手前になった人以外は皆自分さえ良ければそれでいいという人間だったので、3年間、クラスの中が離婚調停中の夫婦のような冷たさだった。普通なら、自分さえ良ければそれでいいという人の中の何人かが居心地の悪さに辟易して、協調型や自己犠牲型に移行するものだが、面白いことに誰もその役割を買って出なかった。居心地の悪さより自己の利益を選んだのである。

教師も教師で居心地の悪い淀んだ空気の教室に授業に来ては、溜息を吐き、出席日数の関係の無い授業での出席率の悪さに溜息を吐き、出席している人間の目の前で愚痴をこぼし、朝早くから夜遅くまで授業があるものだから死んだ魚の目をしているし、全く以って悪循環だった。かといって、別に教師が悪かったわけでは無いだろう。頭が凡庸な自己本位が40人もいたことが唯唯不幸だったというだけだ。頭が悪すぎて教師の方も今までの指導方針では追いつけなかっただけだろう。

私のクラスはそのような自己本位がむき出しになったある意味素直で良いクラスだったが、これが頭の良い人たちの集団になると、自己本位型や協調型や自己犠牲型がそれぞれ程良い割合になるよう各自がそれぞれの適性に応じて演じ分けるような集団となる。それでいて、その水面下では、それぞれが自分の利益が最大になるように調整している。ギブアンドテイクがスムーズな集団である。たしかに、その方が、表面的な居心地の良さも得られて精神衛生上の利益も得られる。表面上上手くいっているので、自分の利益に関するお願いもしやすい。利益も増やしやすい。その利益はどこから持ってくるのかと言うと、本気で協調や自己犠牲を考えている人から、もしくは自分の利益しか頭にない最終的な利益の見えない人からである。

自分の利益の為に足の引っ張り合いをしている集団などというものは馬鹿の極みである。

私は、子供の頃はかろうじて協調型という人の良い人間であったが、高校時代のクラスメイト達のおかげで、自分の利益を優先する方が短期的には強いということを身を以って教えられた。その強さの性質というものは暴力的で長期的に見ると利益を損ないかねないが・・・。私は自己本位型ではあるが、評価されるのは好きだが人を評価するだけの器も人徳も方法論も持たない人間であるので、やはりただ使われるだけのつまらない人間である。

高校時代のクラスメイトが今どういうポジションにいるのか全く知らないが、いずれにしても本当の意味で人を指導する立場の人間になった人はいないだろう。