二次元愛と三次元愛が混然一体だった人達の本

宮台真司二村ヒトシ『 どうすれば愛しあえるの 幸せな性愛のヒント』

という本を読みました。

宮台センセイは、私と同年代に生まれていれば確実にエロゲオタ(主に純愛系をプレイするが、ときどきフェチ系もプレイする)になっていただろうという感想を抱かせてくれる本でした。

センセイは、三次元世界にも愛が存在する時代に生まれて幸せだったんだろうな、と。

愛のある数多くの女性達に支えられて先生もようやく愛が分かるようになりました、という集大成のような本でした。

愛に疎いがゆえに、ナンパ師になり、性愛を研究し、援助交際を世間に暴露し、という過程を経なければ愛を実感できなかったのでしょう。

迷惑にも程があります。まあ、仕方ありません。センセイの若い頃にはエロゲがありませんでしたからね。

作中で言ってることも抽象的過ぎてところどころ分かりません。例えるなら、『終ノ空』の間宮卓司様のようです。

ただ、悪い人ではなく鈍感なだけですし、センセイが言いたいことは、おおむね理解も共感もできました。

社会の内部で生きることができない人間が、性愛にこだわります。センセイもそんな人間の一人だったのだろうと。

宮台センセイの最初の自慰は、サイボーグ009のサイボーグ003ことフランソワーズ・アルヌールという女性になりきって拷問されているという妄想がネタだったそうです。

ベテランの風俗嬢曰く、男性の3割はセンセイと同じく、自分が女になり切った妄想で興奮するそうです。

宮台さんは、女性の心に映るものを自分自身の心に映し出して興奮するタイプとのことでした。

そういった女性との心の相互浸透の挙句、妄想が自分のものか相手のものか不明になる状態が究極の性愛ではないか、と思っていらっしゃるようです。

そういう性愛の形は大変美しいと思うのですが、美しいが故に実現が困難であると思います。

性的嗜好の方向性が実現困難だったからこそ、宮台センセイは長い長い旅をするはめになったのではないでしょうか。

対談者の二村さんも同じ方向性で、女性になりきっていたそうです。その果てに、AV監督になったと言っています。例として、キューティーハニーになりきって美少年を犯す妄想をしていたと言っています。

同じ方向性なのですが、二村さんには宮台さんのような気持ち悪さは一切感じなかった訳で、分かりやすい言葉で適切に性愛を語っていらっしゃるなという印象を抱きました。

ただ、私はかなりの潔癖症かつ人間嫌いで三次元のアダルト関係は苦手で一度も見たことがないので、これから先も二村さんの作品を見ることはないでしょう。

しかし、両者とも何故か初期衝動がアニメですね。近所に住んでいた年上の女性のふとしたしぐさに一目惚れしたとか、近所の色町に迷い込んだことがあるとかではないのが不思議です。もしかしたら、それが長い旅の原因ではないでしょうか?

 

さて、何故、宮台センセイが私と同年代に生まれていたら、エロゲオタになっていたのではないか?というと、先生が作中で嘆いておられるように先生の時代にはあった「正しさ」を追い求める人より、「損得」で物事を考える人が圧倒的に多くなったからです。その数の暴力に抗いきれずに二次元世界に安住の地を求めたに違いありません。三次元世界で愛を求めてさまようと、男性側はメンヘラ女性に、女性側はリア充を自称する見栄だけの男性に高確率でぶち当たる、という時代です。普通の性的嗜好の人間であってもお互い思いあう恋愛が困難な時代に、宮台先生のような一捻りか二捻りかあるような妄想に喜んで付き合いきれる女性に出会える確率はかなり低いでしょう。

という訳で、先生のような強者であっても、早々に二次元世界にドライブインして三次元世界には二度と帰ってこなかったかもしれません。

センセイの時代にオタクだった人間と違い、今(というか10年くらい前)のオタクは、環境が許せば、オタクでもなんでもなく、普通に愛のある恋愛を心の底から望んでいるような層だったのですよ。

まあ、オタクの考える愛なんて普通の女性からするとキモイだけの妄想であり、「正しさ」というのも一面的なものでしかないのかもしれません。「正しさ」の多様化が進んで、全体を調整するには「損得」で割り切るしかない社会になったとも考えられます。

しかし、作中で宮台さんが女性は、損得勘定で物事を測る男性より正しい男性を選ぶと言っていますが、それは、女性は、損得でしか物事を考えられない生き物だから、自分に無いものを男性に求めるのではないでしょうか?

例えば、人類が文明を生み出す遥か昔、未だ未知の脅威や危険にさらされる確率が高い環境に暮らしていた頃のことを想像してみます。その際に、力(この場合、物理的な意味で)のある男性が正しさをもって集団を統率する場合、集団内から裏切り者が出る確率や集団外からの脅威に晒される確率は、男性より力の劣る女性が正しさを以って集団を統率する場合に比べて、少ないと考えられます。何故なら、正しさを暴力で覆すことは容易だからです。あるいは、いざとなったときに、正しさを行使する女性自身が集団を代表して戦い、集団内のメンバーを守ることができないためです。このため、正しさと力は常にセットで行使されるという方向性が合理的でしょう。故に、正しさと力を同時に発露できるような方向性に淘汰圧が働いた(進化してきた)と考えれば、女性が正しい男性を「損得勘定で」(=合理的に)選びたがることの説明が可能です。男性側では正しさは集団を統率する能力として生存上有利に働きますが、女性側では正しさは関係ありません。しかし、これはあくまで集団レベルでの仮定であり、個人レベルで見れば、正しさを貫く女性もいるでしょうし、損得感情が得意な男性もいるでしょう。正しさを貫く女性を多くの男性が支持して保護することで集団内の強力なルールを敷いた集団もある程度の定住が可能な段階には出現したのかもしれません。また、一人の人間が文脈によってそれらを上手く使い分けることも当然ながらあります。

また、そういう男女差があるのであれば、子育てにおいては男性というのは極めて重要な役割を担います。男性が正しさを示すことで、子どもがそれを会得することができ、女性が損得勘定によってたまには正しくなくてもええんやで?という優しさとルールの例外を示すことで、子どもは様々な価値観があることを知ることができます。

しかし、こういった妄想に近い仮説が真であるかは、人類の神経学的研究や生物学的あるいは人類学的研究が進むのを待つしかないと思います。

 

作中で性愛による変性意識状態という時間の感覚を喪失するような体験することが良いとされています。けれど、それって結構当たり前というか、性愛の関係に無くても、気が合う相手と一緒にいれば時間感覚は狂うものではないでしょうか?

恋愛について考えたり体験したりするほど、木乃伊取りが木乃伊になる的な何かで、言うことが私のような二次元美少女(=男性の中の女性性)をこよなく愛するキモオタ的になってくるのだと思いました。

それから、女性も男性に願望を伝えて欲しいという切なる願いを作中で何度も吐露していましたが、意外と女性というのは男性の思う理想の女性を演じることに最上の喜びを感じ、それだけで十分満足できるのではないか?と思います。それは、上記に書いたように男性の正しさに女性が合わせることが生物学的な意味で合理的な生存戦略だからです。

なので、やはり、女性になりきって犯されたい願望が最上の喜びであるという男性を満足させられる女性を見つける旅は長くならざるを得ないのではないか、と。そして行き着く答えが、正しい巫女さんか正しい上に強いセイバーであるという事なのです。