途中の行方 Syrup16g

Syrup16gが再結成したので、何ヶ月か前に新しいアルバム『Hurt』を買いました。
そして、そのアルバムを聞いて、自然と、アルバム『Syrup16g』中の楽曲が気になり始めました。
新しい音源を聞いて、古い音源の違った良さを再認識したのかもしれません。
もしくは、新しい音源を聞くことで、古い音源の位置づけが見えてきたということなのかもしれません。
そんなに明確に意識をしていたわけではないのですが、『Hurt』を聞いた後、自然と『Syrup16g』を聞いている自分がいました。
その『Syrup16g』中で、「途中の行方」という歌がとても印象に残りました。

そして、音だけではなく、映像でも見てみたいと思ったので、2008年3月1日に武道館にて行われたsyrup16gラストライブを収めたDVDも買ってみました。
実は、このライブの様子を収めたDVDを当時は買わなかったのです。
なぜ、買わなかったのかは忘れましたが、Syrup16gが解散すると聞いて、時は流れていくのだなと思った記憶があります。
しかも、私が望んだ方向とは全く違う方向に。
そんなの当たり前のことなのですが、頭では分かっていたことが、身体を通して分かった出来事でした。

「途中の行方」の場面。
五十嵐さんの目がとにかく凄いです。
なんと形容したらいいのか、なんと形容すべきなのかわからないくらい凄い目です。
それまでの曲でも鋭かった目がこの曲で更に鋭くなる気がします。

私がリアルタイムでSyrup16gの情報を得ていたのが、2004年までなのですが、
2008年にはこんなに凄い表現力でライブをしていたのかと思うと、感慨深いです。

何度も見てしまう目をしています。

途中の行方の歌詞。
狂っても何もかもは捨てきれれない、何もかも忘れられない
日々生きていると考えずにはおれないことです。
今が狂っているのか、昔が狂っていたのか。
自分が狂っているのか、環境が狂っているのか、誰かが狂っているのか。
日々の生活に追われているとそういった相対的な考え方があることすら見失いそうになります。
そして、意識は内側へ向き、自分が狂っているということにしてしまうのかもしれません。

たとえ、自分は一度たりとも狂っていないと認識していたとしても、今自分が考え、口にしていることは果たして自分の意見か、それとも誰かの意見の引き写しに過ぎないのか、そういった自意識の境界について考えることも可能です。
そして、今まで自分が持っていた意見を他のものに変えた時、それまでの価値観や人間関係を捨てたり、忘れたりできるかというとそうでもないと思います。

歌詞の解釈というのは、読み手の自己投影に過ぎないのですが、色々なことを考えさせられる歌詞です。

このように、狂ってしまうまではいかずとも、今までとは何かが変わってしまったと思ったときにどうするのか。
Syrup16gは「復元」という言葉を歌っています。
狂いっぱなしにしないというのは大事なのかもしれません。
その先、生きていくにしても死んでいくにしても。

おそらく、この「復元」という提案が、私がSyrup16gを今でも好きな理由です。