飆風 車谷長吉

 

飆風 (文春文庫)

飆風 (文春文庫)

 

 

この本は、19歳の頃に一度読みました。そのときは、ただただ圧倒されました。
10年ぶりに、今読み返すと、彼の文章の放つ毒が、血管を通って全身に回っていくようです。
昔は、素通りした言葉が、今は、楔のように皮膚からはなれないといいますか…。

あまりに苦しいので、まず体裁から。
85ページ-168ページの短編です。
小説は、以下の章から構成されています。

一、新婚
二、指
三、発作
四、低迷運
五、忌む
六、癲狂院
七、息
八、見沼田んぼの木

主人公は、小説を書きながら、嘱託社員として口を糊している人です。
章の題名を見て分かるように、48歳で結婚し、その後、解雇や体調不良、文学賞の候補作となった自分の作品が落選するなどの悪運が続き、ついに、六章で、強迫神経症強迫性障害)と診断されます。
(処方された薬は、ドグマチール錠、アナフラニール錠、ソラナックス錠、胃潰瘍治療薬として、セルベックス・カプセル、ムコスタ錠。平成八年当時。)
(ただ、この人の書いている症状の中に、畳の目が流れる、靴やスリッパが空中を飛ぶのが見えるというものがあって、これが演出のための描写なのか、何なのかはわかりません。)

何故、48歳という晩婚だったのかというと、この小説に直接出てきたかは忘れてしまいましたが、30代は、料理屋の下働きを転々としていたからです。
また、性行為をすることに、とてつもない罪悪感を感じるというのも、晩婚の遠因ではないかと思います。
細かい設定の差はありますが、この方の小説は基本的に、私小説といって、自分を題材にしています。
20代で一度、新人賞を取りますが、その後、全く書けなくなり、会社もやめてしまい、という人生を辿ってきたという設定になっていることが多いです。
20代の頃は、金を手元においておくのが嫌いで、給料が出るとすぐに、飲み代に使ってしまい、給料前は、インスタントラーメンをお湯を入れずに、割って少しずつ食べた、という話も、別の小説に出てきます。
また、人形を裸にして抱いて寝る話もあります。これは、作り話ではなく、本当の話のようで、その人形というのも写真で見たことがあります。
概ね、こんな感じの人です。

そして肝心のこの小説の「私」ですが、読んでいると、人間関係にも潔癖なところがあって、何かしらの病にもなるだろうな、という描写があります。例えば次のような部分です。

「ことほど左様に、牛田の俗物ぶりは底なしで、そういうざまを寧ろ「可愛い。」と言う人もあったが、私は血の凍るような嫌悪感を感じていた。相手が自分より下だと見ると、名刺の肩書をふり回し、上だと思うとぺこぺこする。自分より強い者には弱く、弱い者には尊大な態度を見せる、徹底したサラリーマン気質なのだ。これは日本人の三分の一を占める、讀賣ジャイアンツのファン気質と同じだった。「地位」を「存在」と勘違いしているのだ。人間の「存在」など死への一本道なのに。」

こういう俗物っぽい人がいても、そんな人もいるでしょうね、ぐらいで済ますのが普通の人の反応ですが、どうもそうはいかないのが、この主人公のようです。
「地位」を「存在」と勘違いしている人を、スルー出来ないのです。私自身もこういうところがありますので、ここまではっきり明言してくれるとすっきりします。

また、人間の生きている意味というのを執拗に考え続ける人でもあります。
例えば、次のような部分です。

「昔、私が小学校六年生の春、宏之叔父(母の次弟)が二十一歳で自殺した。その直前、叔父はコップの水をその横の空きコップに移し替え、また元に戻し、さらにまた戻すということを、一日数百回も執拗にくり返していた。目が爛々と輝いていた。そのコップの水を移し替えるという動きが止まった瞬間、宏之叔父は首吊り自殺したのだった。

(中略)
当然、私も手を洗っている時は、自殺の誘惑に駆られる。洗えば洗うほど、その阿呆らしさに腹が立ち、併し私には手を洗うことが生きていることであって、止めることは出来ないのだ。鏡を覗くと、私の目も宏之叔父と同じように暗く輝いていた。
(中略)
強迫神経症。なぜこういう病気になったのか、いくら考えてもわからない。それは、なぜ私が人間としてこの世に生まれてきたのかをいくら考えても、わからないのと同じだ。


自分の存在の意味を問うことなんて、私なんかは脳みそがその重責に耐えられないのでとっくの昔にやめているのですが、主人公の「私」は、どうやらそういうことをずっと考え続けてきた人のようです。そうでなければ、さらっと生まれてきたことの意味を問うのと同じなんて言葉は出てこないでしょう。
精神科の医師も、そういう主人公の考え方の特徴を察してか、次のような説明をします。

「飯尾医師の話では、普通の人は物事を謂ゆる常識の範囲内で判断して暮らしているが、その常識というのは、ごく狭い、浅いものであって、精神疾患の人は、その狭い、浅い範囲から外へはみ出した人たちだと言う。つまり人間というのは常識で考えているよりは、はるかに広く、深いものであって、その広く、深いところで苦悩しているのが、精神疾患の人だと言う。だから飯尾医師は精神疾患の人のことを、阿呆だとも馬鹿だとも思わないと。いや、そもそも人間は程度の差こそあれ、すべて精神疾患の人であって、その自覚がある人はこういう精神科病院へ来るが、自覚のない人は来ないだけです。ですから実は健常者とか普通の人とかいうのはこの世にいないわけです。
 併し毎日、多くの精神疾患の自覚のある人に接することを職業にしていると、ときに疲れ切って、自分の仕事が厭になることがあると。」

この医師が言っていることが本心からなのか患者の気持ちに沿うためなのかは分かりませんが、そういう発言も小説に入れ込まれてしまうのです。

また、結婚した奥さんに対しても、次のように感じていると書いてしまうのは、とても正直だと思います。
好きで結婚しても、他者であることは変わらず、この人の場合は、自分が自分であることが不快とまで言って自分を傷つけるように小説を書いているので、奥さんに手を挙げないだけマシなのかもしれません。

「私は愛がどうのヘチマがどうのと言う女が大嫌いだ。うちの嫁はんは決してそういうことを言わない女だった。けれども結婚以来、私は嫁はんの存在に、ある圧迫感を感じ続けてきた。嫁はんがかたわらにいるだけで、気圧されるような感じがするのだ。これが他者性だ。」

とにかく他者に対する不快感が、拭いがたいというのが、「私」が発症した病のようです。
ここまで来ると、周りの人間もどうしたらいいのかわからないでしょう。

そして、小説は、次のような独白で締めくくられます。

「精神を侵された私は、すでに「生ける屍」だ。こうして言葉で自己を確認することは、私が「生ける死人」であることを自己に刻印することだ。言葉は恐ろしい。人を傷つける力を秘めている。書くことによって得られる爽快感(カタルシス)も無いわけではないが、言葉のこの刻印する力が、さらに私を狂わせていく。
(中略)
作家になることは、悪人になることだ。」

きっと、そうなんだろうな、と思います。そう、その通り、と。
だからどうした?とかだから何が言いたいんだ?という類の話ではないのです。

強迫神経症と診断された後、車谷氏は、ストックしていた原稿を仕上げ、『赤目四十八瀧心中未遂』で直木賞を受賞しています。
この『飆風』という小説は、『赤目四十八瀧心中未遂』後に、過去を振り返って書かれた最後の私小説です。

自然科学の諸産物である薬や認知科学脳科学などをもってしては、到底癒しがたい部分というものが人間の中には存在すると思います。その癒しがたい何かを感じた時、それを救ってくれるのも叩き落としてくれるのも文学だなと感じます。

そして、こういったテーマも文学となりうるのだということを目の当たりにすると、自分の中の抑えがたい衝動が、昇華という形で実現できることを知らされ、その事実によって、他のどんなものでも癒しがたい何かが癒やされるのを感じます。

しかし、もし、身近にこの小説の「私」のように、苦しんでいる人がいたら、苦しんでまで己を傷つけなくていいんだよ、と言ってしまうと思います。
本人の中では抗いがたい何かなので、周りがそこまで追い込まなくても大丈夫だということを伝えるべきだろうなという考えです。
でも、きっと本人は、それを止めることはできないんでしょうね。