「愛」とは仏教用語で「喉の渇き」を意味するらしい


「愛」なども、もとは「喉の渇き」の意であったのだが。

 車谷長吉「金輪際」より

作家の車谷長吉さんが、お亡くなりになられて、一週間経ちました。
5月17日午前8時34分。死因は、食べ物を喉につまらせた窒息でした。

おこがましい考えですが、私は、車谷さんのことを思想上の親、精神的な部分の親だと思って、17歳の時から今日まで過ごしてきました。
本当に駄目だ、逃げてしまうと思ったときに、いつも私の心を折れないように支えてくれたのは、車谷さんのどこか可笑しみのある優しい言葉でした。
露悪的などと評され、自らも反時代的毒虫を自称されていたのですが、私は車谷さんの言葉からは優しさしか感じませんでした。
車谷さんの言葉によって、私は私自身の心の身勝手さを自覚し、恥ずかしいと思うことができました。
その時から、車谷さんの言葉のすべてが私の心の中で脈打ち始めました。
近松門左衛門の虚実皮膜という言葉、事実と虚構との微妙な境界に芸術の真実があるとする論を知ったのも、車谷さんの小説でした。
虚実皮膜という思想に貫かれた言葉の数々が、私の眼窩に突き刺さり、唄を歌い始めました。
哀しい唄も陽気な唄も激しい唄も、そこにはありました。
しかし、どの唄も優しさに裏打ちされているように私には感じられたのです。
言葉が突き刺さって、脳みそが「血みどろ」になったにも関わらず。

正直なところ、亡くなったことをまだ受け入れられずにいます。
しかし、天に召されたということは、平成8年頃からずっと苦しまれてきた強迫性障害と生まれた時からの先天性蓄膿症の苦しみから開放されたということです。
そのことだけが救いです。

これまでも、車谷さんの作品に関して思ったことをいくつか書いてきましたが、
どれもどこか思いが捻くれていて、酷いことも書いています。
けれども、亡くなった途端にこんなしおらしい感じのことを書いているのです。
その一事だけでも私という人間は、つくづく救いようのない人間だなと思います。
親のすねかじりをしていたニートが、親が亡くなって途方に暮れている様な状態とでも言いましょうか。

しかし、本当に心の底から好きでした。
温かく、どこか可笑しみのある文章も、山奥の波の立たない湖を思わせる静謐な文章も、何もかも私を夢中にさせてくれました。
17歳の私は、車谷さんの書く「生島さん」の生き様を見て、恐ろしいものを感じました。また、同時に喉の渇きを覚えたのです。
そして、車谷さんの分身である生島さんという存在のそのまた分身が、私を許し、受け入れてくれました。
その事で、私は救われ、己を保って生きています。
残念ながら29歳の私は、生島さんと真っ向から目を合わせられるような人間にはなれませんでした。
未だに私は、自分の人生を始めることができていないからです。
車谷さんは、本当に困った時からその人は、ようやく人生を始めることができるとよくおっしゃっていましたが、私は本当の意味で困ったことが無いのです。
もしかしたら、自分の人生を始めることが出来た時に、車谷さんの言葉が必要なくなるのかもしれません。

今年に入って、車谷さんの作品をここで少しずつ紹介していこう、と思った矢先の訃報でした。
しかし、車谷さんの作品を読めば、誰しもが必ずなにがしかの強い気持ちを抱くことは確かなことだと思います。

17歳の愚かな私に、考えること、表現すること、仕事をすること、そして本当は黙って生きることが救いであることを教えてくださりありがとうございました。
残念なことに、私は黙ることのできない仕事で日々の生計を立てており、業の深い人生を送っています。
車谷さんのいう簡単な生活への道はまだまだ遠いようです。
普段の生活においては、私の中に一度は脈打った車谷さんの言葉たちが、ひっそりと息を潜めて存在を消しています。
夜、一人暗い部屋に座っていると、車谷さんの言葉たちが唄を歌い始めようとしますが、次の瞬間にはもう朝になってしまっていて、言葉たちはまた目の深いところへ潜ってしまうという日々です。
しかし、いつかは、この言葉たちが目を抜け出て、部屋を自由に駆け回るのを見てみたいと思っています。