贋世捨人 車谷長吉

 

贋世捨人 (文春文庫)

贋世捨人 (文春文庫)

 

 

私が十歳になるかならないかの頃、家族で海に出かけました。
海は美しく澄み渡っていて、白い浜辺は遊びに来た人々で賑わっていました。
そんな喧騒の中、一人の麦わら帽子をかぶった青年が
海から少し離れたところにある松林の木陰に、ぽつんと一人座っていました。
遠目からも彼のかぶっている麦わら帽子や服がくたびれているのが分かりました。
何をしているのだろうとそばを通りかかるついでにチラッと見てみると、
その青年は、持ってきたスケッチブックに何やら一心不乱に絵を描き付けているようでした。
そしてその青年の目は、爛々と輝いていました。
しかし、その輝きは、夏の太陽の光を反射する波の輝きと決して同種では無いのだということを子供心に思いました。
その人の目を今でも忘れることが出来ません。

そんな目を思い出させる小説をその十年後に読み、そしてまた、今、読み返しています。

芸術に生きることは、「世捨」なのでしょうか。
「世捨」をしなければ、芸術に生きることは出来ないのでしょうか。

その二つの疑問に答えようとしたのがこの小説だと思います。

この小説の主人公は、二十代の半ばで小説を書き、それが新人賞をとります。
しかし、ああだこうだと悩み続け、西行兼好法師芭蕉などのように「世捨」という生き方がしたいと思い続けます。
その間に、職を転々とします。
編集者や知人に、早く新しい原稿を書けと言われ続けますが、だんだんとやる気も失い腐っていきます。
けれど、腐りながらも「世捨」という生き方がどういうものであるかということは、きちんと考え続けます。
そして、西行を始めとした「世捨人」たちが、何故、世捨が出来たのかということを調べるうちに、「世捨」という生き方の欺瞞に気づきます。
それを、自分の母親の台詞として次のように語らせます。

「あんた、貧乏が好きになって、なれの果ては無一物や。ほら、無一物でもええわいな。どのみちこの世のことは、あの世へ持って行かれへんのやさかい。けど、人は死ぬまで生きて行かな、あかんのやでな。それにはいやでも応でも銭がいるわいな。あんた何様なんやいな。親に大学出してもうて、三十過ぎて、部屋住みやないか。親の臑齧りやないか。あんた、小説みたいなもん書いて、発表してからに。うち読んだがな。西行はんな、あの人、何もかも捨ててもて、無一物がいっちええ、いうような歌、上手に詠んだったわいな。けど、あの人な、世を捨てたったあとも、紀州の方にようけ年貢米が上がる荘園持っとったいう話やないか。これだけはよう捨ててなかったいう話やないか。しがみ付いとったいう話やないか。百姓に汗水たらして働かしといて、我が身は無一物がええ、いう歌を詠む。これが西行はんいう人の性根や。あんたは西行はんの歌が好きなんやろ。そういうお人や。あんたッ、旅館の下足番にでもなりなッ。一生、この世の下積みで生きて行かなッ。何も言わんとッ。胸糞悪いわッ。」

このように母親に言われた後も、下足番、料理屋の追い回しなどをしつつも、ああだこうだと悩み続け、小説も書かず、仕事は真面目にするものの、何の目標もなく、日々を過ごしていきます。
そして、料理屋で懸命に働いている人達の姿を見て、自分が世捨人になりたいなどと浮ついたことを考えていることに自己嫌悪を覚えます。
しかし、小説は書けません。

そして、自分に目をかけてくれていた編集者から五年ぶりに音信が届きます。
どうやら、自分に目をかけすぎたことが原因で、部署を変えられたのだということを
その編集者の話の断片から気づきます。
その編集者の上司から、「あんな奴は神戸で覚醒剤の売人でもやってりゃいいんだ、それがお似合いだよ」なんて言われていると聞かされても、ま、わいはその程度のくすぼり(やくざ者)やな、といった風に開き直ります。

しかし、とうとうその編集者の身に起こったあることがきっかけで、小説原稿を一気に書き上げ、再び、上京し、その作品が芥川賞候補になります。

けれども、その作品は芥川賞を逃し、編集者や選考委員から、「馬鹿野郎」「馬鹿者」などと面罵され、他人に対しても自分に対しても「ざまァ見やがれ」と己の無能を噛み締めます。

また、作品が芥川賞候補になったせいで、勤めていた料理屋に報道関係者が詰めかけたため、店の親ッさんから、他の者に示しがつかないので、小説を書くことに専念するように勧められます。

最後までどうしようもなく愚図愚図としている主人公です。
しかしながら、周りの人に罵倒されたり、励まされたりして、この人の作品は世に出てきたことが分かります。
真面目な信念を持って会社の業務を遂行している人や目標を持って料理修行をしている人達からすれば、すごく迷惑な存在です。
けれども、そんな人達が、彼を支え、背中を押してくれたからこそ、彼の作品ができあがったのです。
主人公はずいぶんと愚図愚図していますが、この小説は、その人達への感謝と作品を世に出す経緯を示した作品なのではないかと感じました。

芸術に生きることは、「世捨」なのか、「世捨」をしなければ、芸術に生きることは出来ないのか。

芸術を作る側も享受する側もそれが人間である以上、人の基本的な営みから遠くへ離れることは無いのではないか?
遠くはなれてしまうと、それに心揺すぶられる人はごくわずかになってしまうのではないか?

そんなことを考え続けさせてくれる作品だと私は思います。