こういう雨の降る寒い日には、昔読んだ本のことを思い出したりします。

 

その一つをここに、感想を交えながら書いてみたいと思います。

 

それは、車谷長吉氏の『赤目四十八滝心中未遂』です。

 

戦後を舞台とした小説は、山間の片田舎に育った私自身には上手く理解できないものばかりでした。しかし、この作品はそれを見事に打ち破ってくれたのです。

 

そして、私のような多くの言葉や概念を知らない人間でも理解しやすい言葉で書かれています。

 

私はこの作品に出合えなければ本を読むという行為を理解できなかったかもしれません。

 

それくらい、色々なことを考えさせられた作品です。

 

作品の舞台は尼崎ということになっています。これは、実際の尼崎ではなくて想像上の尼崎ということなのだと思います。純文学作品、特に車谷さんのような私小説をお書きになる方の作品では、受け手によってそういったところがかなり曖昧になってしまうことが多いのですが、私はこれは完全なるフィクションとして受け取っています。

 

そのフィクションの地に、主人公生島が職を求めてやって来ます。この生島という人が相当にちょっと変わったところのある人で、大学で哲学書などを読んでいるうちに「チンケに負ける豚」になってしまったらしいです。そういう人は現実でもまれに存在しますが、そういう人は世間では何を考えているか分からない人として冷遇されます。この生島さんもご多分に漏れず、「このバチ当たりが。」というようなことを雇い主である初老の女に言われます。

 

しかし、同じアパートに住む若い女、アヤちゃんは初めは無関心ではあったのですが、諸事情により、生島さんに積極的に関わっていくことになります。

 

話の筋自体は古今東西の色々な地で様々に色付けされてきたよくあるパターンだと思います。けれども、車谷さんの作品は何故かそれが陳腐には思えません。それが何故なのかは私などには説明するだけの力がありませんが、アヤちゃんの、

 

「けど、ほんまに困ったら、人には相談でけへんのよね。人に相談できるあいだは、まだ、ほんまに困ってないいうことよね。」や生島さんの、

 

「私はいっつもこないして、時を失うて生きて来たんです。」に対してアヤちゃんの、

 

「生島さんは、やっぱりむつかしいこと言やはるわね、好きなんやね。時を失うやなんて、私らよう分からへん。」

 

というような言葉の端々からにじみ出る何かがそう感じさせるのだと思います。それは、車谷さん自身がよくおっしゃる「人が人である悲しみ」の中の、共感しつつも絶対的には理解することは叶わない悲しみだったりするのかもしれません。

 

そして、何より、この作品はそれぞれの登場人物の心構えが狂気を孕む位に強いと思います。日々を何となく生きている小市民の私にはその心構えが恐ろしくて仕方ないです。主人公の生島さんは、アヤちゃんのことを「目がきらきら輝き、光が猛禽類のようである」、「この女の目はいつもきらきら輝いている。が、目を伏せた時に、きわだって暗いものがその表情に現れる」などと、アヤちゃんに惹かれつつも、恐れていますが、生島さん自身もせっかく買ってきた十枚のはがきを全て反故にしてしまったり、生活のところどころで何処か恐ろしいところがあります。それぞれに何か思うことがあってその過程でそういった行動に出るのだとは思いますが、そういったことは現実の世界では他人の目に触れることはありません。ゆえに、小説の中であっても、そういった行動を目の当たりにすると恐ろしくて仕方ないのです。

 

これは他の車谷さんの作品でも見られると思います。けれども、最近ではこの恐ろしさが狂気へと変わってきたようにも感じられます。

 

車谷さんの作品の中で私が一番良いな、と思っているのは『鹽壺の匙』です。上質で静かな文章の中に何か強いものを感じます。

 

赤目四十八瀧心中未遂

赤目四十八瀧心中未遂

 

 

 

塩壷の匙 (新潮文庫)

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